仄暗い魔法瓶

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一話 人食い花 前編

 遅く起きる朝、魔法の練習を昼まで。それが親友のフルトの日課である。

 真っ白な毛皮の寝間着姿で、フルトは大きな屋敷の自室の真ん中にポツンと突っ立っていた。両手には、猫耳のついたニット帽子がのっている。

 魔術に必要な道具は、このニット帽子だけで良い。彼の使う魔法は、帽子の中からあらゆるものを呼び出す、召喚魔術である。

 召喚出来るものに限界は無いとされているが、見習いであるフルトは、師匠の魔女であるリーゼロッテに、お菓子のクッキー以外の召喚を禁じられている。当時の私は、クッキーしか出せない魔法使いに何の仕事が出来るのだろうかと心配であったが、地道な鍛錬も召喚魔術には必要なのだろう。

 フルトは目を閉じ、幼い顔で皺をつくっている。今の彼の頭はクッキーでいっぱいだ。少しでも別のことを考えれば、失敗してしまう。おかしな話だが、魔法とは複雑なものほど簡単である。ダンスが必要なら踊れば良い。呪術師のように呪いの言葉が必要であれば、それを唱えれば良い。しかし、彼には帽子しかない。帽子は自由だ。帽子の中から何が出てきてもおかしくはない。

 フルトは目を見開いた。ニット帽子の中に手を入れる。手にざらついた感触が伝わった。取り出してみると、それはクッキーが砕けて出来た粉だった。

 帽子からクッキーの粉がとめどなく溢れてくる。フルトが止めようとしても帽子は言うことを聞かず、悲鳴と共に、部屋をクリーム色に満たした。

 扉をノックする音が聞こえた。

 フルトは粉から抜け出して、扉を開けた。同じ屋敷に住んでいるリーゼロッテだった。

「おはようフルト……おはよう」

 リーゼロッテは赤い瞳を見開き、驚いた。彼女ののせている、猫耳のついた鍔の広い三角帽子が、その拍子に落ちてしまう。

 フルトは粉まみれの姿で黙っていた。リーゼロッテを見上げるフルトの黒い目が、空気を読めと彼女に訴えかけていた。

「ごめんなさい。邪魔しちゃったね」

 その声はいつものように、か細くて落ち着きがあった。しかし我慢していたのか、リーゼロッテは口を押え、静かに笑った。

 リーゼロッテは、二十歳ほどの見た目をしている、可愛らしい女性だ。背が高く、前髪の切り揃った赤髪を、腰まで伸ばしている。

 彼女はとても人付き合いが苦手だった。二人は師弟であったが、リーゼロッテの性格のせいか、歳の離れた友人のようであった。

 リーゼロッテは落ちてしまった三角帽子を拾い、部屋の床に置いた。

 三角帽子から風が生まれ、クッキーの粉が吸い込まれてゆく。召喚魔術は、呼び出すことも、呼び戻すことも出来た。

 掃除が終わり、何事もない仕草で被り直す彼女の姿に、フルトは喉元をくすぐられる感じがした。

 リーゼロッテは、フルトの服や帽子に付いた粉を払ってくれる。目の前に迫る大きな胸をフルトは凝視した。リーゼロッテはその穏やかな性格とは違い、長い素足を露出させるショートパンツと、薄い生地のノースリーブを着ている。十三歳のフルトには刺激が強い。とはいえ、口では言わないがこの少年は女好きなところがあり、迷惑には思っていなかった。

 リーゼロッテは小さな声でフルトに言った。

「実はラネルから相談がきて。来てほしいって」

「また? 草むしりとか?」

「それは来週だって」

「桜の枝のダンス」

「それは……明後日」

「じゃあ今日は何」

「秘密の相談だって。人食い花がどうとかって」

「分かったよ。行くしかなさそうだし」

 フルトは修行という名目で、様々な厄介事を引き受ける。その大半は、ラネルという魔女の頼み事から始まる。

 リーゼロッテは笑顔を見せて、屋敷の三階へ引きこもった。

 安請け合いをしたことをフルトは知っていたが、それも今年で二年目のことだった。

 フルトは灰色の半袖シャツと、ゆったりとしたオレンジのズボンに着替える。腰のベルトに剣を差し込み、屋敷の玄関扉を開けた。真昼の涼しい風が吹き抜けた。

 

 初めて人食い花のことを聞かされる時、必ず噂話から始まる。

 見た目は大きく頑丈で、五枚の紫色をした花弁の中央には、真っ暗な穴が空いている。人の腕が伸びると、花弁が腕を掴み、穴の中に引きずり込む。丸呑みにしたまま、ゆっくりと身体を溶かして栄養分に変えてしまう。

 人食い花は、捕食で得た栄養を茎に溜め込んでいる。人食い花の蜜と呼ばれていて、どの甘味にも勝る極上の一品とされる。

 たとえ勇者であっても、人食い花の花弁を見つけたのであれば、逃げなければならない。人食い花は蜜の香りをばら撒き、人を誘惑させる。ある一国の王は、その蜜の味に魅入られ、堕落したとされている。

 初めて人食い花のことを聞かされる時、最後には必ず笑われる。噂話が御伽噺から伝わったものだと遅れて気付かされるからだ。

「私も蜂蜜なら年中食べてるよ。お酒と一緒にね」

 魔女のラネルは、ウイスキーグラスを片手にそう言った。

 近所にあるラネルの研究屋敷を訪れたフルトは、大きなリビングのソファにて、延々と話し相手をさせられていた。

 真面目な時の彼女は、ブラウンのショートヘアに半円型の眼鏡をかけ、凛とした微笑みを浮かべているが、ウイスキーを飲み干した今は、顔を赤くし、眼鏡を逆さまにかけている。丸めた背中でソファに沈み込み、伸ばした足をテーブルの上に乗せているので、ハイヒールが座っているフルトの鼻に当たりそうだ。

 今日はそれに加え、トルテタウンの魔女の証である、黄色いマントを太ももに乗せ、ナプキン代わりにしていた。

「そろそろ帰るよ。飯作んないと」

 フルトは立ち上がった。ラネルはいつも、こちらが本題を切り出さなければ真面目に話してくれないのだった。

「待ってフルト君。人食い花の話をしようではないか」

 フルトは舌打ちをして、ソファに座り直す。ブドウジュースのグラスを傾けた。

 ラネルは笑って、姿勢を正した。眼鏡をかけ直す。

「ついさっきね、知り合いの商人が、人食い花が咲いてるって言ってきたの」

「人食い花なんて迷信だろ」

「まあね。でも咲いている場所が、この研究屋敷らしいの」

「ここの? 人食い花が?」

「そう。ここの屋上に」

「どうせあんたの魔法とかだろ」

「正解。実は、見習いのチコルが魔術の練習をしていたの。その時に、絵本に載ってた人食い花に興味が出ちゃったみたいで。ヘザーの花を使って、変化の魔術をかけた。そしたら形だけのものを作れてしまって。屋上でチコルが飾ってた所を商人のビスコさんに見られたのよ」

 魔女は、自身の魔力を使い、あらゆるものを支配することが出来る。ラネルは植物を支配する力を持ち、ラネルの弟子であるチコルもまた、同じ力を使い、人食い花の模型とも言えるものを生み出すことが出来た。

 しかし、貴重なもの、有名なものであれば、それが偽物だとしても、強欲に欲する人間が現れる。だからこそ、魔法は安易に使ってはならないものである。

 フルトは大事なことを聞いた。

「商人のビスコっていうのは、誰なんだ。ノーラに話せばいいだろ」

 魔法に関する問題は、街の長であるノーラに報告すれば済む話だった。

 ラネルは少し躊躇っていたが、正直に話した。

ビスコさんは私の友人なんだ。だから話を大きくしたくないんだよ」

「人間は何するか分からねえぞ」

 フルトは自分を指差して言った。

「知ってるさ。今日、ここで話す約束をしてるから、君も待っていてくれ」

 ラネルは笑いながら深々と頭を下げる。酔いは覚めているようだ。

 フルトは渋々と頷いた。ラネルが困っていることは確かだが、彼女はどこか達観しているように見えた。

 商人のビスコは、昼過ぎに研究屋敷を訪れた。痩せ細った高齢の男で、鼻が長かった。

 フルトは剣をソファのクッションで隠しておいた。

「上げてもらってすまんね。すぐ戻るんで」

「そいつは残念だ。フルト君、ちょっとこれで、ここの床掃除してて」

 ラネルは、ヘザーを束ねて作ったホウキをフルトに渡した。フルトは嫌な顔で受け取り、木床を掃く。

 ギクシャクした動きのフルトを怪しんでいたビスコであるが、気にせずに話を進める。

「最後の仕事ってことで、魔法道具を手に入れたくてね」

「最後? 仕事を辞めてしまうの?」

「引退ってわけです。腰もこんなになっちまってですね」

 ビスコは曲がった背中を見せた。ゴツゴツの骨が見える。

 そのお返しに、ラネルもシャツをめくり、背中を見せた。白い肌がすらりと伸びていた。

 二人は笑い合う。本当に仲が良いのだと、フルトは思った。

「ずっと世話になった街ですが、足にガタが来る前に、生まれ育った村を探そうと思っています。もう残ってないでしょうが」

「外に安住なんてありゃしませんよ。この街もそうですが、私達がいる分、落ち着くってもんです」

「いやいや、もう充分楽しくやらせてもらったよ。私も、知りはしませんよ、道中に何が起きるかなんて……亡霊に憑りつかれるのだけは嫌ですがね。どっちみち私は街に帰らない。ほら、物思いにふける爺には、魔法というもんがとても光って見える。何でも出来そうな、お守りのような。そんなところだね」

 ラネルはふんふんと頷いた。

「それで私に魔法具の相談かい? 大胆なことだね」

 魔女は無闇に魔法を授けることをしない。特に、魔法道具は強力な魔力が施されているため、師弟関係の間で継承されることが多い。

 どれほど親密な相手であろうと、普通の人間に渡すことはあり得ないことだった。

「まあ、軽々しく人に手渡すものじゃないことは分かってるけどよ。でも、お偉いラネルさんに頼めば何とかしてもらえるんじぇねえかってね」

「偉くありませんし、魔法具なんて渡したら魔物の餌にされちゃいます」

 ラネルは高い声で笑った。フルトは耳を押さえた。

 ビスコもそれにつられて笑いながら、おもむろに右手の人差し指を上に向けた。

 皺だらけのその指は、小さく震えながらも、力強いものをフルトに感じさせた。

「人食い花、屋上にありましたね。絵本そっくりだった」

「弟子の仕業です。あれはもう処分しました。驚かせたのでしたら申し訳ありません」

「いやいや。しかし変な噂でも流れないかと心配です」

「と言いますと?」

「魔女が人食い花をつくる。そんな噂でも街に流れれば、街の人間はどう思うでしょうかな。裏で金稼ぎをする魔女と思われることもあれば、出来れば取引がしたいと思う輩も現れる。人間は汚いもんですから」

「ただの商人であるあなたが、それだけで私に魔法を引き出せるとでも?」

 ラネルに言われ、ビスコは両手を合わせて目を閉じた。それがあまりに長いので、悩んでいるのか、演技なのか、フルトには分からない。

「私の家の隣には呪術師が住んでましてな。彼が口癖のように言うのですよ。言葉は呪いだってね。となれば、噂は呪いの始まりとも言えますな」

 ラネルはフルトの方をちらりと見る。

 それから両手を挙げ、降参のポーズを取った。

「これ以上はお互いに引けませんね。またもう一度お会いしましょう。ウイスキーでも飲んでいってくださいな。引退祝いです」

 ラネルとビスコは互いに握手をしてから、何食わぬ顔で雑談を始めた。まるで二人でゲームをしているかのようで、ついていけないと、フルトはため息をついた。

 

 二人がまだ話している間に、フルトは二階の部屋にいるチコルに会った。

 チコルは魔女見習いになったばかりの五歳の女の子で、ラネルに怒られて泣いていた。形だけとはいえ人食い花をつくりだしたからであるが、魔法を知らないばかりに、何故怒られたのか分かっていない様子だった。

 チコルは身体にピンク色のローブを巻き付け、ミノムシのような姿で絨毯を転がっている。凶暴な状態だった。縮れ毛の膨らんだ黒髪と、リスのような黒目をした愛らしい顔をしているが、対応を間違えると噛みつかれる危険がある。

 フルトは声をかけた。

「大丈夫かーチコル」

「私の名は、緑の指のチコルだ!」

 チコルは達者な口ぶりで抗議する。緑の指、とはラネルの二つ名である。魔女はファミリーネームを持たないことが多いため、代わりに二つ名を誰かから授かる習慣がある。魔女に憧れているチコルは、ラネルの二つ名を勝手に名乗っているのだった。

 大抵は相手にされないが、今日のフルトは彼女に従ってあげた。

「緑の指のチコル様。大丈夫でしょうか」

「クッキーがあれば私は泣き止むだろうな」

 フルトは懐からクッキーの入った革袋を取り出した。

 召喚したものではなく、店で買ったものだ。魔術の練習で呼び出したクッキーは、いつもチコルにあげている。しかし今日のようにクッキーが出せない日は、チコルに内緒で買ってあげていた。

 チコルは一分でクッキーを呑み込んだ。本当に泣き止んだ。

「実に美味かったぞ、強欲のリーゼロッテの弟子よ。いつも感謝する」

 チコルは小さな手を差し伸べる。二人は固い握手をした。

「フルトにこれをやろう。特別だぞ」

 チコルはローブの中から、小さな絵本を出した。地味な装丁のもので、人食い花らしき絵もあった。これを見ながら魔法を使ったのだろう。

 一階から扉の閉まる音がした。チコルの部屋の丸窓から外を覗くと、ビスコが石畳を歩いている。

 フルトは絵本を借りて、後を追いかけた。チコルは大賢人のような佇まいで、行ってくるがよい、と激励した。

 

 ビスコは自分の所属する商隊、キャラバンの詰所へ向かっていた。

 フルトはビスコを尾行しながら、リーゼロッテの屋敷やラネルの研究施設のすぐ南にある大通りを歩く。安直な名前だがマジックストリートと呼ばれている通りで、淡い虹色に光る石畳の道を、魔女の店が連なっている。オレンジに統一された屋根の下で売り出されているのは珍品ばかりだ。足舐め草、手の平サイズの雨傘、革細工のランプ、転ぶことのないハイヒール。魔女がよく利用するため、女性のための道具も多かった。初めて訪れた人間は、どれが女性のための道具かさえ分からないが。

 黄色いマントを羽織った魔女達がフルトに気付き、挨拶をする。マジックストリートでは、フルトは有名人だった。フルトは目立つ帽子を取り、気付かれないよう注意する。

 通りの東端まで行くと、ビスコの所属するキャラバンの詰所があった。詰所の裏手には小さな広場があり、魔女見習いの子供達が遊んでいる。広場を挟むように、リーゼロッテの屋敷の、緑色のトンガリ屋根が見えた。

 詰所の馬小屋で商品を降ろしている中年の男に、ビスコが話しかけている。ただの世間話のようだった。

 フルトは近くの石壁に隠れようとした。しかし石壁に背中を付けた時、腰に差していた剣の鞘が壁にぶつかる。目を閉じたくなるほどの大きい音が鳴った。

 音に気付いたビスコがこちらへ歩いてくる。フルトは目を閉じて、助けてお母さん、と祈った。しかしそれどころではなかった。

 広場で遊んでいた子供達が、友達と話しながらこちらへ向かっていた。フルトはニット帽子の中に、手を突っ込んだ。

 クッキーの粉が辺りに飛び散った。勢いは凄まじく、馬小屋がたちまちにしてクリーム色に染まる。

 ビスコが辺りを見回しても、フルトの姿は無い。

 子供達がクッキーの粉に気が付き、集まってきた。巻き上げて遊び始め、その騒ぎで人だかりが出来る。皆が、魔女見習いの子供の悪戯だろうと考えた。

「こりゃ雪みてえだ。掃除が大変だな」

 ビスコがそう言って笑った。

 暴れる馬をなだめながら、キャラバンの男は怒鳴る。

「これじゃ商品が置けないじゃないか! 叱ってやらんと!」

「許してやりな、子供のすることだよ。広場だけじゃ遊び足らんのさ。私が後で掃除しとくから」

 ビスコはにっこりと笑って手を振る。子供達も手を振って、帰っていく。

 その後もビスコと男の間で世間話が続いたが、フルトはクッキーの粉の下で、甘い香りに悶絶しながら耐えたのだった。

 

 ビスコが自宅を目指して歩き始める。フルトは粉まみれの体で、尾行を続けた。

 マジックストリートの脇道から入り、更に南に向かうと、魔女達の家が並んでいる場所に出る。そこにビスコの家もあった。

 魔女の建てる伝統的な家は、塔の形をした白いレンガ造りのものだ。仲の良い者達でルームシェアを行い、人数に合わせて塔の階層も増える。ビスコのように、人間同士で塔を借りることもある。

 塔に付けられた、子供一人分の大きさのドアをノックして、ビスコは中に入った。しばらくするとビスコは塔から出て、マジックストリートへ戻る。荷物を置きに来ただけのようだ。

 フルトは塔に近付き、ドアをノックした。反応は無い。

 侵入するのも良いが、魔法で防犯対策がされているかもしれない。そう思い悩んでいたフルトの肩に、ポンと手が置かれた。

 叫び声をあげてフルトが振り返ると、一人の女性が大声で笑っていた。

「ははは! びっくりしたでしょ!」

 彼女の名はフォリア。ラネルの魔女見習いであり、チコルの姉弟子である。

 藍色の上着に茶色いズボンを着ている。毛先の結われた長い金髪と赤くて大きな瞳も合わさり、勝ち気な雰囲気に満ちている。

 右手には木製のトランクがぶら下がっている。最近は遠出をしており、中々会えなかった。

 フルトは苛立って殴りかかる。しかしフォリアは華麗な動きで逃げた。金髪が後を追う。

「俺についてきたのかよ」

「いやいや、偶然だよフルト君。私も師匠に頼まれたんだから」

 フォリアもまたラネルに頼まれ、ビスコのことを調べに来たのだった。

 フルトが止める前に、フォリアはドアをノックする。

 誰もいないことを確かめ、彼女はドアを開いた。鍵もかかっていなければ、魔法が起こることもなかった。

 堂々と中に入る彼女を見て、渋々とついて行くフルト。

 一階のキッチンは乱雑に使われ、使い終わった食器が大量に残っている。梯子で二階に登ると、ビスコの部屋があった。誰かと共同で住んでおり、布を仕切りに使っていた。

 背の低い、赤茶色の机が置かれている。机の上にあるのは、仕入台帳くらい。他には仕入れている木彫りの彫刻品が、綺麗に並んでいるだけであった。

 トルテタウンに住む商人は、質素な生活を送っている。この街の魔女との商売は、物々交換でしか行われないからである。

 この街の魔女には通貨を使う機会がない。魔女同士で不足を補い、助け合うことに慣れていて、個人の財産に関心がなかった。言わば、トルテタウンが皆の共同財産である。そのような魔女と取引をする商人も大きな富は持てない。外からやって来る者達と違い、トルテタウンに暮らす人間は、魔女の暮らしの中に身を置いていた。

 二人は仕入台帳を読むことにした。フルトは数字に弱く、どういう意味か分からなかったが、フォリアが気を使い、書かれている数字の意味を教えながら読んでくれた。フルトは照れ隠しに変な顔をつくった。

 台帳を見ながら、フォリアは旅の話をした。彼女は今、見習いの勉強として植物の本の執筆を任されていた。

 フルトには理由が分からなかったが、植物の本を書くには、書きたい植物を自分の力で見つけ、長い時間をかけて観察しなければならない。それは道端の小石を一つずつ拾うような作業だという。

「おっかないけど、外には私の知らない草木がたくさんあるんだ。街から見るとヘザーばっかり見えるけどさ」

「クッキーばっかりより楽しそう」フルトはあくびをする。

「楽しくはないさ。どうせ勉強しても普通の人に大きな魔法は使えないしさ。それに、歩くほど美脚がムキムキになるし、靴がすり減るし」

「美脚……」

「でも、さっきチコルに私の書いた絵本をあげたら喜んでくれたよ」

 フォリアはにんまりと笑った。とても幸せそうに見えた。

 その時、一階のドアがノックされる音がした。

 フルトとフォリアは目を合わせた。

 誰かが梯子を登っている。二人は声にならない叫び声をあげて台帳を投げ合う。

「誰か来ちゃったよフルト君!」

「俺に渡すなよ!」

 必死に平常心を取り戻し、フルトは台帳を元の場所に戻す。

 フォリアはフルトの手を引っ張り、ベランダへ向かった。彼女は持っていたトランクを思いっきり開く。

 トランクの中には鼠色の土が敷かれ、青緑の茎が幾つも伸びている。

 フォリアは懐から小瓶を出して、中に入っている海水を土にかけた。

 土に埋まっている植物の根が、青く光り始める。光は、根から茎にまで至り、茎の先から真っ白な綿が出てくる。綿はどんどん増えてトランクを包み込んだ。

「私と一緒に来て」

 フォリアはトランクを踏み抜いた。綿が青く光る。

 フルトがフォリアの肩にしがみついた瞬間、冷たい空気が身体の中に飛び込み、息が出来なかった。

 トランクは二人を乗せてベランダを飛び越える。そのまま上へ、上へ、風を巻き上げて発射。目が開かず、全てが風に浸され、ただ身を委ねる冷たい一瞬。

「もう大丈夫だよフルト」

 フォリアの声が、彼女の肩越しに聞こえた。

 フルトが目を開けると、視界は雲一つない夕空に満たされていた。二人を乗せたトランクは、魔女の塔を優に越えて、天高くにまで飛び上がっていた。

 トルテタウンの全てを一望出来た。小さな粒となった魔女や人間が、ゆっくりと動いている。街路灯の火が灯され、もうすぐ祈りの時間が始まる。

「海綿毛さ」

 フォリアは綿毛に触れながらそう言った。綿毛は、触られると青く光り、トランクは更に上昇する。ゆらりと風に揺れるトランクには、掴まる場所が無い。フルトは慣れるまでなるべく下を見ないようにした。

「いつまで飛ぶんだよこれ」

「気分次第かな。ほら、綺麗だよ」

 フォリアが指差した。ヘザーの紫色に彩られた、美しい山脈が、街を見守るように悠然とそびえている。トルテタウンはこの山脈から伸びている丘陵地帯に築かれていた。

 山脈から丘陵の地平線に至るまで、ヘザーは咲き誇っている。夕暮れ時になると、夕日の光に当てられたヘザーが色味を増すことで、兵陵と夕日の空が合わさり、世界が赤色に閉じられる。

 フォリアは地平線の先を見て言った。

「あの向こうに機関車の跡があったの。昔にあった街を調べれば植物の分布も作りやすくなるかもって思うんだけど」

 フルトは小言を返そうとしたが、夕日に染まる彼女の横顔は真剣だった。

「ラネルに言ったの? 一人じゃ難しいだろ」

「フルト君だって一人でワイルドハント調べてんじゃん」

「どうせリーゼはクッキーしか教えてくれねえよ」

 フルトは、チコルに渡したものと同じクッキーをフォリアにあげた。フォリアは笑った。

「まああの人なりに心配してるはずさ。まあそれはさておき、これ見てみなよ」

 フォリアは、一枚の紙をフルトに渡した。

 それはビスコの台帳に挟まっていたもので、逃げる前にフォリアが見つけたものだった。

 フルトはクッキーを自分の口に放りながらそれを見て、驚いた。紙には、人食い花らしき絵が描かれていたのだった。