一話 人食い花 中編
帰りは夜になった。フルトとフォリアの二人組は、一つの手土産をラネルに渡した。一つしかないが、大切な手がかりだ。
ビスコが持っていた人食い花の絵は、幾重にも重ねて塗られた油絵で描かれていた。真っ黒に塗られた暗闇の中で、赤い花弁が淡く光を纏い、咲いている。
不気味で、思わず魅入ってしまう。味がある、とでも言うべきか。
だが、ラネルの方は、渡された人食い花の絵をほんの少し見て、玄関脇の棚に置いてしまった。感想を述べることもなかった。せっかくの手がかりに褒めてもくれない彼女に、フルトは顔には出さずとも、拍子抜けした。
魔女とはそのようなものなのかもしれない。ある時は澄ました顔を立て、またある時は子供のように感情をさらけ出す。ラネルが何かを隠そうとしているのだとは分かるが、大事なことか、些細なことか、推し量れない。
ドタドタバタバタ、足音が研究屋敷に響く。二階からチコルが降りてきた。フォリアは大きな声でただいまと言ってチコルを抱きしめ、はしゃいでいる。
玄関扉に寄りかかり、二人の見習いを見て微笑んでいるラネル。瞳がランプの光を集めていた。
フルトは言った。「明日は何すりゃいいんだ?」
ラネルはこちらを向いて、
「悪いけど、今回はもうお終いかな。後は私で何とかしておくわ」
「見習いの俺じゃ任せられないって?」
「真面目だねフルト君。でも、そんなとこかな。それに君はリーゼの見習いだからね。こき使うのもほどほどにしとくよ」
「別に、もうラネルの見習いみたいなもんだろ」
フルトはそう言った後で気まずいものを感じ、その場を去った。ラネルはその小さな後ろ姿を、きっと苦笑いで見守っていただろう。
夜の風は重い。フルトは両扉を開き、ただいまと言った。
リーゼロッテが静かに階段を降りて来て、おかえりなさいと答えた。
フルトは、リーゼロッテがチコルのようにドタバタと階段を降りて、元気に挨拶する姿を想像してしまった。普段あまり話さない分、彼女の想像をよくするようになっていたのだ。
フルトは休まずにキッチンから大鍋を持ち出し、外の水飲み場で水を汲んだ。料理に使う為だが、使わなければリーゼロッテの水浴びに回すつもりだ。トルテの魔女は寒い日もわざわざ冷たい水で身を清め、暖炉で震える身体を暖める。おかしな風習だが、ずっと続けていると慣れるらしい。私やフルトは冬場にそれを真似して大変な目にあった。
フルトはテーブルに置かれた蝋燭を使い、薪に火を入れる。大抵の家にはキッチンストーブがあり、薪のストーブが内蔵されている。これに火を付けることにより、隣のオーブンや、上に乗っている鉄板に熱が届き、調理が出来る。
「燃えろー燃えてくれー」
フルトはゆっくりと薪を足していく。こうして、静かに炎を見守るのが好きだった。
物心のついた頃、家族に任された初めての仕事が火の番だった。星の降る夜、木の皮で出来た薄い屋根の下、料理に使う火をただ見ていただけの仕事であったが、初めて役に立った気持ちがした。興奮と緊張を繰り返し、火を操る魔術師になったような気分に浸った。
フルトの中の一番昔の想い出だが、こうして料理を作る時に起こす炎もまた同じであった。クッキーしか出せない自分でも、料理は作れるのだなと。
薪を足しながら、フルトは人食い花について考えた。
ビスコは魔法道具ではなく、人食い花に執着しているのだろうか。少なくとも、彼は手荒な真似をする人には見えない。長い間、トルテタウンに住みながら商売を続け、街の信頼を得ていた。友人のラネルを脅すからには、何か事情があるのか。
しかし事情があるのだとすれば、それは何だろうか。友人であれば大抵の悩みはすぐに打ち明けるだろうとフルトは思う。しかも、ラネルのような魔女が相手であれば、何でも相談してしまうかもしれない。
玄関の大きな扉がノックされ、我に返った。
扉は返事より速く開かれる。ラネルが仕事のお礼にと、大きな布袋を持ってやってきた。
「夜の挨拶に来たよ! 愛しのリーゼロッテ!」
声に応じて、二人は熱い抱擁をすると、互いの頬にキスをした。付き合いの苦手なリーゼロッテも、ラネルには心を許していた。
ラネルはフルトの頬にもキスをした。苦い顔をする彼だが、女好きである故、素直に応じた。
ラネルの持ってきてくれた土産は、下処理を済ませたライチョウである。ライチョウは鳩ほどの大きさの、くすんだ褐色羽の鳥で、トルテではよく食べられている。トルテタウンの丘陵の先にある最高峰、フィエート山脈には純白のライチョウもいて、色を変えて街へ来ている時期だった。
フルトは羽をむしり、赤身を切り開く。臭みの強い内臓を取り、胸肉、もも肉と切り分ける。
切り終えた肉と、ニンニク、玉ねぎをキッチンストーブのオーブンに入れる。あまり焼き過ぎないように時間を計ってから、鉄の扉を開ければ、ライチョウのローストの出来上がりだ。
真っ白な二つの皿をテーブルに出した。一つは大皿、一つは小皿。そこへ湯気の立つロースト、炒めた野菜を無造作にのせる。
ラネルは珍しくすぐに帰ってしまった。屋敷は静かになった。
リーゼロッテがチーズとパンを用意する。パンは純白の丸い生地で、ムニールと呼ばれている。とても柔らかく、あまり噛まなくとも喉に通る、主食の一つだ。
テーブルの両端の椅子に座った二人は、祈りの言葉もなく食事を始めた。
フルトは熱いうちにローストのもも肉を頬張り、続けて千切ったムニールを口にいれる。ライチョウは奥深い味を出す。ソースをかけなくても、口の中に入れれば味が広がる。苦みの強い部分もあるが食べ慣れた彼にとってはそこが好きだった。味に飽きたらチーズと一緒に食べても美味い。
リーゼロッテはローストをナイフで小さく切り、フォークに突き刺したそれを食べている。ぎこちなく飲み込む姿は、餌を貰う雛鳥のようだ。
彼女は一八歳の頃から味覚を感じることが出来なかった。魔女に起こる神経の病の一つで、何かの呪術が働いているとされている。
魔女によって症状は様々で、音の聞こえない者、痛みを感じない者、目の見えない者がいる。あのラネルもまた、何も見えておらず、両目にある紫の瞳は義眼である。
リーゼロッテは水を飲みつつ、ローストを呑み込む。彼女にとって肉の油は気持ちの悪いものだが、ラネルが土産を持ってきた日は、我慢をする日となっていた。栄養を付けてほしいというラネルの気持ちを、リーゼロッテは知っていた。フルトもそれを知っているからこそ、土産を貰う日は、何も言わずにローストを作るのだった。
食事を終え、二人は一緒に食器を洗い、エールをなみなみと注いだコップで乾杯した。酒の酔いは、彼女も楽しめた。
フルトは赤くなった顔で、チコルに貰った小さな本を見た。人食い花の絵が細かく描かれていて、解説書らしき文章が延々と続いている。
本の内容がフルトには全く分からない。シュディガル言語という、古い魔女の言葉で記されていたからだ。今では物好きな魔女しか使わない代物だ。
文章の中からしきりに出てくる短い言葉があった。フルトは指を差してリーゼロッテに聞いた。
「リーゼ、これ何て書いてあるんだ」
彼女はすぐに答えた。
「光、だよ。蜜の意味」
「光と蜜?」
「この文章だと二つの意味になるから……懐かしい文字だね」
「チコルがクッキーのお礼にくれたんだよ」
「ラネルのお師匠様の、だと思うよ。眠そうな文字だから」
リーゼロッテは微笑みながら文字を流している。
この時彼女は、あまり話をしてあげていない代わりにと、本を朗読してあげようとしたのだが、フルトは素っ気なく断ってしまった。リーゼロッテに自分の知らない思い出を話されているような気持ちがしたからであった。特に深い意味もない、子供の嫉妬である。
リーゼロッテは酒で火照った顔をおさえ、席を立った。彼女はいつも決まった時間に三階の自室で眠る。午後九時十五分。
階段を上る、すらりとした背を見て、フルトは呼び止めた。
「そろそろ、クッキー以外のものを出してみたいんだけどさ」
「……クッキー美味しいよ?」
「いや嫌いじゃねえけど。その、他にもしたくて」
「……ごめんなさい。ノーラ様がお許しになるまで、難しいと思う」
リーゼロッテは申し訳なさそうに、階段の青影に消えた。
部屋に残されたようで腹が立つフルトである。
「俺も寝るかな」苦しい独り言の後、二回の自室へ戻った。
小さな足は疲れ果てている。伸びをしてからベッドに身体を預ける。
天上の丸い木目を見ながら、フルトは街に来てからの二年間を考える。ろくな魔術も知らぬまま、厄介事には慣れてしまっている暮らしぶりに、この少年は口には出さないが納得していた。ただの子供が魔女の街で生きていく為に必要なことは、難しい理屈よりも先に、まず慣れることが大切だ。
彼はそうやって生きてきたからこそ、物事を俯瞰で見る癖の付いた子供になったのだろう。ただし納得しているだけで、不満ではあった。何故なら、彼には心にしまっているくだらない野望が一つ芽生えているのだから。
明日からまた新しい厄介事が降りかかって来るのだろう。早く水浴びを済ませて寝ようと、ニット帽子を取ろうとした時だった。フルトは自分の右手の人差し指が赤くなっているのに気づいた
指で擦るとザラザラとした感触がして、油絵の絵の具だと分かった。
完全に乾いている絵であるのに、おかしいと思った矢先、指が赤く光り始めた。
水に差し込んだ光のように穏やかなものだったが、フルトは驚き、指で必死に擦りながら外の水場へ急いだ。外でも赤い光は輝きを増し、フルトの慌てふためく顔が照らされて真夜中に浮かび上がってしまっている。
水飲み場で必死に洗い落としながら、少しずつ心を落ち着かせた。何が起きているのだろうかと考えても、あの不気味な絵が思い浮かぶばかりだ。
家へ戻り部屋の扉を閉める頃には、気持ちが落ち着いていた。ラネルに相談しようと思った。
しかし再び心が高鳴った。指で擦った時に落ちたのか、粉状の絵の具が、少しだけベッドの上に落ちていた。
フルトの心の中で、リーゼロッテの声が甘く囁いた。
「コインを回してはならない」
フルトは振り返った。当然部屋に彼女はいない。
甘い囁きは心の底に沈んだ言葉。リーゼロッテが最初にフルトへ魔術を教えた時の言葉を今になって彼は思い出したのだった。
まだフルトが街へ来て間もない頃のことだ。その日は雨だった。雷の音がしていた。リーゼロッテの屋敷の物置部屋の薄闇に、二人は立っていた。誰にも見られないように、窓をカーテンで締め切り、あるのは蝋燭の灯かり一つと、白い手の平に乗せた金色のコイン。見たことのない動物が彫られたものだった。
リーゼロッテは木箱の上でコインを回す。クルクルと光を集め、やがて横に倒れる。
彼女は古ぼけた三角帽子をコインの上に被せた。
しばらく経つと、コインの回る音がした。木箱を擦る音がしたのだ。
フルトは夢中になって聞いた。彼女は両手を離し、目の前にあるのは三角帽子だけだ。帽子の中でコインはずっと回り続けている。雷が何度落ちてこようがコインは回り続ける。
「私の魔術は強欲を司るもの。継承されし魔術に、呪術を掛け合わせた召喚術。願う全てが、時間を束ねて帽子の中に。故に、帽子におさまって然るべきもの」
コインの倒れる音がした。
彼女は帽子を取る。コインがただそこにあるだけだ。
リーゼロッテは淡々とフルトに言った。
「コインを回してはならない」
それから二年が経ち、物置部屋は片付けられフルトの部屋となり、魔術見習いとなった。だがクッキー製造機と化した彼は、まだ他のものを召喚したことがない。
「手品みたいに、帽子を置けばそれっぽいな」
軽い悪戯心が芽生えたに過ぎない。
あの時のリーゼロッテのように、彼は粉になった絵の具の上に帽子を被せてみせた。
しばらく待ったが、クッキーのように帽子から飛び出してくるようなこともなく、静かであった。
口元が震えるほどの緊張感が体の全てにのしかかる。笑いがこみ上げる。リーゼのように自由に魔術が使えればどんなに面白いだろうか、想像もつかない。
笑いながら帽子を上げようとした時、帽子とシーツの間から、植物のツタが出た。
ツタは蛇のようにシーツを這う。フルトはツタを帽子にゆっくり押し戻して、両手で抑えながら、頭を真っ白にさせていた。顔の口が笑ったまま固まっている。帽子の中では何か大きなものが蠢いている。身体から汗が滲み、震えている。身体が言うことを聞かない。
「リーゼ」
小さな声で呼んだ。助けを呼ぼうとする自分と、何かの勘違いではないかと疑って必死に逃げようとしている自分がいた。
フルトが行った魔術は、普通の召喚ではなく、あらゆるものを時空から引き出す、言うなれば過去と未来の召喚である。それを何故クッキーしか出してこなかったフルトが使えるのかと言えば、それが強欲の魔術たる所以だからだ。リーゼロッテの使う魔術は、他の魔女より抜きん出て異質なものだった。
フルトはドアへ振り向いた。リーゼロッテは気付いていない。もし気付いていれば、このまま助けを呼ぼうか、それとも一人で何とかするしかないのか。
「コインを回してはならない」
リーゼロッテの声が響く。頭から噴き出る冷や汗を拭うことも出来ず彼は懸命に声を出さないようにしていた。愚かだが、今のフルトに冷静な心は無く、リーゼロッテに見られたくない気持ちが強くなっていた。
しまわなければ。今日の朝、リーゼロッテがクッキーの粉を吸い取ったように。
いつだって散らかすより片付ける方が大変だ。フルトがどんなにしまおうとしても、帽子の中身は消えない。フルトは目を瞑る。心がもう持たない。
フルトが耐え切れずに叫ぼうとした時、おさえている帽子は動かなくなっていた。持ち上げると、中は空っぽになっていた。
フルトは大きく息を吐き、床に倒れた。
呼吸を整え、汗を拭いている内に、いつもの冷静な考えが戻って来る。全ては見ていないが、偶然ではない。御伽噺は目で見えてはいけないものだ。
ラネルは知っているのだろうか。どちらにしても、今日はもう眠れそうにない。ラネルに相談しなければ。
フルトはいつもの服に着替え、ニット帽子を被る。扉の隅に立ててある剣を取り、静かに屋敷を出た。