仄暗い魔法瓶

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一話 人食い花 後編

一話 人食い花 中編

 

 夜の風は重い。フルトはラネルの元へ急いだ。何も見えず、何度も転んだ。
 研究屋敷の扉は開かれ、ランプの光が石畳を滑っていた。玄関先から小さな話し声が聞こえた。
 生垣に隠れ、汗を拭いながら目を凝らす。腰の曲がった小さな人影が、ラネルと話していた。ビスコだ。しかし開かれた扉が邪魔をして、フルトはラネルの姿を見られない。
 一瞬だけ赤い光が見えた。フルトは頭を傾けてラネルの様子を伺う。彼女は玄関先に椅子を置き、そこに座ってビスコと話していた。話しながら、あの人食い花の絵を持っている。赤い光はその絵から溢れ出ている。
 ラネルの声がした。
「人を求める光の蜜。師の話していた人食い花に、まさか貴方が出会っていたなんてね」
 ラネルは持っていたオイルランプで、人食い花の絵に火を付ける。
 燃え盛るそれは石畳へ放り捨てられる。火に照らされ、石畳が淡い七色に映った。ビスコの汚れた靴も見えた。
 ビスコの足元には、旅支度を済ませた革袋があった。夜更けに旅に出る人間なんて、獣の餌になるようなものだ。まして老人であれば、陽を拝むことも叶わないだろう。
 絵が燃え尽きた時、ビスコの静かな声がした。
「私はずっと昔に、子供の時に見ました。家畜を連れ帰っていたら、薄暗い、小さな森を見つけて、入ってみると、赤い光が差していて、それを追いかけてると、真っ赤に光る人食い花が、ありました。私は襲われると思い、ナイフで斬りつけていました。花びらは全部落ちて、でも良い香りだけが残っていて、残っている茎をナイフで削ったら、真っ赤な蜜が垂れました。私は興奮したまま、気が付くと蜜を舐めた。恐ろしく甘くて。本当に甘いんです。冷静になった後に、それを瓶にたくさん入れて、逃げました。
 私は、自分の村を捨てて、他の行商人を追いかけるように旅を始めました。何度も死にそうになりながら、商人を見つけては、蜜と交換して商売道具を集めました。そうしてこの街にたどり着くことが出来ました」
 ビスコの声が消えると、しばらく何も聞こえなかった。フルトは心の高鳴りの中で、どうしてこのような場に居合わせているのか、と自問する。
「今日は月が見えないね」
 ラネルの声だ。ありきたりな言葉だ。ビスコの影が頷いたように見えた。
「素直に相談してくれればいいじゃないか」
「私も汚い商人ですからね、人間は何するか分かりませんから、素直に相談なんて。脅迫でもすれば只事じゃないと知ってくれるかと」
「恥ずかしかっただけでしょうが」
 ビスコは笑った。図星のようだった。
 ぎこちない声で彼は言った。
「歳を重ねるほどに、あの蜜をもう一度食べたくなる。ずっと誘われている。でも、変な罪悪感が後から出てきた。不思議な感覚なんです、私はあの時から一つの道の上に立っていて、トルテで爺になるまで働いた先に待っているのは、綺麗なおしまいなんだろうって、考えてしまうのです。故郷を目指しながらの道すがら、花に誘われるのも、私にしては面白いでしょう。
 多分、頭がおかしくなっていたんでしょう。美術品の絵の具に、残っていた蜜を混ぜ込んで、あの絵を描きました。それからずっと仕事に集中してこの誘惑を誤魔化していました」
 ラネルのため息がした。
「私の知恵を持ってしても、緑の指などと呼ばれても、君に何もしてやれない。友というより、ただの隣人だった訳だ、結局、私達は」
「皆、隣人のようなものでしょう。だからこそ魔の差も関係ありますまい」
 二人は短い間、握手をした。
 ビスコは北の方へと歩き、影すら見えなくなる。ビスコは本当に外へ出るつもりであった。
 ラネルは扉を閉めずに、椅子に座り続けている。
 フルトは歩み寄る。彼女はウイスキーを飲んでいた。玄関脇の棚に置かれたランプの灯かりの中で、彼女の頬骨の影が映り、口元は冷たい色をしていた。紫の瞳は何を見ているわけでもなく、ぼんやりとそこにあった。
「フルト君に見られてしまうとはね」
 そう言いつつ、ラネルは落ち着いていた。
 フルトは口を開いた。
「止めないと。夜に街を出るなんて」
「あの人は覚悟を決めている。人食い花の蜜の味を知った者はもう抗えない。貴方にはまだ分からないことでしょうが」
ビスコさんは友達なんだろ、今は止めないと」
「友人だろうと出来ないこともある。仕方のないことなの」
「アンタは魔女だろ!」
 叫びながら、フルトは自分の口にした言葉に驚いていた。
 ラネルは笑みを見せた。いつもの優しい笑みではなかった。
 彼は溢れ出るままに言葉を口にする。
「花なんて知らねえよ! 何が起こってるのか分からねえけど、ここで座ってる場合じゃねえだろ、見習いの俺達がどう足掻いても出来ない魔法が使えるアンタなら、最後まで何か出来るだろう、それがラネルの仕事だろ」
「それなら君は何故ここに立っているの?」
 ラネルはそう返した。
 フルトは声に出そうとして、口を閉じた。
「フルト、貴方は賢い。だからこそ、貴方はここに立ち続けている。仕方のないことだと気付いている。でも、追いかけてみてもいいんじゃないかな」
 ラネルはウイスキーを注ぎに部屋へ戻った。
 目の前の彼女の行動の全てが、フルトにとって憎しみに変わってしまう。頭の中で、彼女の声が幾度も往復し、その度に胸が締め付けられた。
 フルトは腰元に差した剣を掴む。このまま家に帰るつもりはない。
 ラネルが置いたままのランプを手に取り、フルトは走る。
 トルテタウンは四方を青き巨大な壁に囲まれている。城門のようなものはなく、馬車が二台並べられるほどの通り道が北と南にある。北の道は商人とは無縁の店が多い為、要人を迎える時以外には使われない。
 フルトは街の北にある青い壁の手前まで来た。壁には、金細工で縁取られたアーチ状の通り道が空いている。外からの風が吹き込んでくる。
 辺りに人の気配はない。既にビスコは外へ出たのだろうか。
 少しの間臆していたが、左手にランプを握りしめ、前へ進む。
 音の反響する通り道を抜けて壁の向こう側へ出た。外へ出てしまえば、月光もない、目の前をひたすら闇が塗りつぶしてくる。
 夜の風は重い。フルトはビスコを呼びながら、後ろを振り返り、街の壁がすぐそこにあるのを確認する。風が草を撫でつける音、足元に触れている草や土の感触、左手に持つランプの灯かり、それらがフルトの心を支えた。すぐ後ろに街があるというのに、ただならぬ気配に怯えていた。
 ランプの金属の取っ手が、きいきいと音を立てる。気付かない間に身体が揺れているのだと分かった。後ろを振り返ると、街を囲むあの巨大な壁が地平線の彼方まで消え失せてしまっている。何もない。
 フルトは辺りを見回した。目など何の役に立つのだろうか、ただ安心出来るものを見たいばかりに、耳を澄まそうともしない。今立っている地は既にトルテの領域ではないというのに。
 フルトがそれを知ったのは、風が闇を切り開き、横並びの暗雲がドアノブを回すように地平線へ跳び去り、真っ白な太陽が顔を出した時。暑い日差し、乾いた風を浴び、フルトは丘陵の真ん中に立っている。
 空に手が伸びそうな丘陵の頂に、ビスコの曲がった背中が見えた。
 フルトは追いかけようとするが、両足が鎧を着こんだように重くなってしまい、歩くのが精一杯だった。
 庭園は姿を晒した。名も知らない草花が、みるみるうちにフルトの身体を影で覆ってしまうほどに成長し、渦を巻いて一つの茎と化した。茎の頂点には蕾が生まれ、光の中で花開く。真っ赤な五枚の花弁。
 フルトの数倍はあろうかという花々が、次々に生まれ、どれも赤い花を咲かせて、真上へ花粉を吐き出す。空が薄赤に染まる。
 フルトは息を止め、ニット帽子を掴んだ。リーゼロッテがクッキーの粉を吸い込んだように、辺りの花粉をしまってしまおうと考えた。
 勿論そのような魔術は教わっていない。しかしフルトが強く念じると、猫耳の付いたニット帽子は従順に答え、凄まじい強風を生んだ。
 辺りに漂う赤い花粉を全てその小さな帽子の中におさめてしまう。
 自らの出した強風のあまりの強さに、フルトは吹き飛び、背中から地面へ叩きつけられた。
 息を吐き出し、咳を繰り返す。右手にはしっかりとニット帽子が握られたままだ。
「戻ってこい!」
 フルトは帽子を被りながら叫んだ。散歩をするように丘を歩いていたビスコはフルトに気付いた。
 ビスコはただ微笑んでいた。
「フルト君だったか、名前は。馬小屋を粉まみれにしたのは気にしてないよ。お帰り」
 地面から飛び出したツルが、フルトの腰に巻き付く。
 持ち上げられたままの状態でフルトは剣を抜き、眼前に迫る人食い花を斬りつけた。人の悲鳴に似た音を立てて花は苦しみ、フルトを投げ飛ばす。
 フルトは頭から地面に叩きつけられた。だが被っているニット帽子に魔術が働いたのか、何とかフルトは立ち上がった。
 ツルを振り回しながら、斬りつけられた人食い花は崩れ落ちる。大きく開かれた、人食い花の口が足元へ横たわった。まるで肉食獣のそれのような、鋭い無数の歯が備わっている。
 フルトは身体を震わせながら、両手で剣を構えた。
「戻ってこい!」
 フルトは絶叫するようにビスコを呼んだ。
 ビスコは既に丘の頂にいなかった。彼は空に浮かび上がり、真っ白に輝く陽を目指していた。彼の身体も白く染まり、光の中に消えてゆくようだった。
 フルトの方は、地面の土が泥のようになって彼の小さな足に巻き付き、空に浮かぶどころか、一歩も踏み出せない。周りは人食い花に埋め尽くされ、逃げ道はない。
 剣を乱暴に振り回し、足を地面から引き抜こうとしながら、冷静な気持ちがまだ残っていた。それこそ今までの自分自身を振り返るほどに、後悔の念が、順番に目の奥に映っては消えていく。例えば、今日の夜に禁止された魔術を使ったこと、ラネルを訪れてビスコを助けようとしたこと、魔法をもっと使ってみたかったこと、強くなりたかったこと。
 しかし後悔というのは、荒れ狂う海原をただ見上げている星々のようなもので、今のフルトには、すぐにこの手で掴める小さな希望の方がより眩しく光っていた。トルテの街に帰りたい。ラネルの面倒な相談を受けながら午後を過ごして、リーゼロッテと話の少ない夜食を食べて、飾りのない部屋で眠りたい。ただの子どもでもいい、ずっと火の番でもいい。
「ラネル!!」
 助けを求めた声に重なって、静かな声が響いた。
「大地を育てるは青き雲。大地を食むは魔の軍勢」
 振っていた剣が重くなる。
 刀身を見ると、大きなバッタが数匹、器用に乗っている。薄茶色の大きな体に、紫に光る目をしている。
 多重に響き渡る羽音。フルトが振り返ると、真っ白な空を覆い、バッタの群れが巨大な暗雲をつくり、広がっていた。
 重い風を吹かせながら、群れは地上へ降り立つ。庭園を砂漠と化さんが為に。
 周りは黒く塗りつぶされ、人食い花の悲鳴がこだました。振り払おうとするツタは強靭な顎で千切られ、吐き出す花粉も塞がれ、形がなくなっていく。
「目を通して君を見ている。そこでじっとして、地面に呑み込まれるのを待ちなさい。私を信じて」
 地面からは新しい花が咲き始めている。時間はない。フルトは剣を鞘にしまい、言葉に従った。
 やがて体が重くなり、足から下半身、上半身とゆっくり泥に沈んでいくが、ラネルを信じる。目の前で起こっている光景から目を覚ましたいと強く念じ、目を閉じる。
 やがて冷たい泥に全身を覆われ、彼は意識を失う。何かに引っ張られるように、上へ浮き上がる感覚がした。
 目を覚ませば、身体は汚れておらず、左手にはランプが握られていた。
 振り返るとすぐ傍にトルテの巨大な青い壁があった。地平線の彼方から朝日が昇り、新しい一日が始まろうとしている。
 ラネルは草原に座り、紫の瞳を輝かせ、朝日を眺めている。羽織っている黄色いマントが、風になびいて光っている。マントに隠れているが、ノースリーブの肩には掠り傷が付いている。
「おはようフルト」
 フルトは何も言葉に出来ず、脱力して横たわった。草の匂いが良い目覚ましになった。
 夢の中の出来事だったかもしれないと思ったが、頭痛と、足や手首に付いたかすり傷で、本当だったのだと分かった。
「たまには外で見る朝日も綺麗」ラネル呑気な声で言った。「リアノーシュテに選ばれて以来、久しく外を出ていなかったけど……魔女と呼ばれる私達を楽しませるものは、良い香りのウイスキーと朝日の輝き、親友のリーゼロッテと可愛い見習い達。そして腰の曲がった隣人。ビスコさんは笑ってた?」
 フルトは頷いた。ラネルは優しく笑って、フルトにありがとうと言った。
 まだゆっくりしたいフルトの手を引っ張って立たせ、ラネルは欠伸をした。
「君のおかげで徹夜だから、今日は休日にしよう。チコルを連れて市場で朝食といこう。珍しい植物が売られているから、久々に講義をしてやろうかね」
「人食い花のことを先に教えろよ。それに寝なくていいのかよ美容の敵だろ」
「百年生きていれば肌荒れなんて気にならないね」
 魔女の家である白亜の塔から、それぞれ鐘の音が聞こえる。それはトルテの街をつくりあげた大賢人、レマ・エトラに新しい一日の感謝を伝える音であった。
 ラネルはフルトの頭を帽子越しに撫でて、街へ歩いていく。フルトはいつものように渋々と付いて行くだけであった。
 今回の騒動の後も、フルトは長い間、ラネルから仕事を受け続けた。緑の指のラネルと呼ばれる彼女がどのような魔女であるのか、フルトは少しずつ分かっていくことになる。人食い花の話にもまだ続きがあるものの、文字に起こすべき時はまだ先である。